議論がおこらないことは誰にとっての問題か?
kzysさんが議論がおこらないことが問題と言っているのを見て、割と説得された部分がある。 けれど、ハンドルを変えて転生とかメンターとかは、自分個人がどう問題に対処するかという話で、 困る対象は自分という前提があるように思う。
自分が困ったおっさんのままで、ますます困った度合いを深める、というのは我々おっさんには由々しき事態ではあるけれど(そしてそれは事実のような気もする…)、 それ以外にもプロジェクトにとっての問題という部分も多いと思った。 だからチームとして、組織としてどうにかしたい問題のようにも思う。
強く押すという問題では無く語気を弱めても議論が起こるべき所で起こらない事が良くある、 というのもなかなか説得される所で、実際語気の問題は原因の全体の中でそんなに多くを占めてないかもしれない。 全く影響が無いとは思わないし、ある程度は押す強さなどで違いも出うるとは思うけれど、 それだけでは十分では無い、というのは、確かにそうかも、と思った。
一方で十分で無いなら他に何が出来るのか、というのは良く分からない所もある。実際問題としてそうした何かが足りてない結果の問題は良く見かける。 ちょっと自分の挙げた具体例を振り返ってみたい。
惰性で続く不要になった事を無くすのに必要な事
自分が例にちょろった挙げた、いらないミーティングをなくすのには強く押していく必要がある、というような話を考えてみる。
こういう惰性で続いてるが不要なものというのは、大多数が無くしたいと思っていても、一人くらいは「現状はうまく機能してないだけで改善すれば有意義になるはずだ」と思っていたりして、無くす事には反対だったりする(しかもその人は往々にして偉い人だったりする)。 そういう場合は、無くすのに対立が必要だ。
こういう時には自分は、強く押したり押し返したりが日常なチームの方か不要な物をうまく無くしていける、と主張した訳だ。 だが、それはkzysさんの言を借りれば、本当は議論が起こらないという大きな問題の症状の一部であり、押しの強さどうこうという問題では無いんじゃないか、という事と理解した。 それは確かにそうかもしれない。
そうした無駄を無くして行こうという空気が既にチームで広く共有されていれば、押しの強さという事とは関係なく問題提起はされるような気もする。 そういう雰囲気を作るにはある程度は対立をどれくらい恐れないか、という性質も影響している気もするし、対立を恐れない事と押しの強さも関係はある気もするけれど、本質では無いと言われるとそうかもしれない。
ただそれでは割と良く発生するこの手の無駄を無くすのに、有効な事というのは何なのかしらね?
余談だけど、日本企業では、以前働いた印象としてはリクルート系列の企業はめっちゃ押しが強くて、その結果うまく発生する無駄に対処出来ていた印象がある。 その後別の日本企業でコンセンサス重視で全然いろいろな事が前に進まない所と仕事した時には、 あれはあれで良い所はあったんだなぁ、と思った。 押しの強さとは違う何かが本質かもしれないけれど、因果関係は無くても相関はあるようにも思う。
コードレビューで見逃しがちな話
もうひとつ、こちらがメインに思いつくのは、やはりレビューなどで本当は良くないと思っている事を面倒で流してしまう、という話。 面倒さについてはmorritaさんが十分に話ていて、結論の押し返すべきかは場合による、コストがある以上トレードオフがあるというのが最終的に正しそうなのも最初から皆が同意しそうなものに思う。
コードレビューの話でちょっとミーティングと違うのは、良く無いと思った事が本当に良くないのかは、 ミーティングなどのケースよりも曖昧だという部分があると思う。 だいたい惰性で続いているミーティングみたいなのは本来あるべき姿よりも明らかに無駄な側に倒れているので、 だいたい全部無くすように頑張っても無くしすぎには普通はならない。
でもコードの場合は好みと実際に問題となる事の区別は凄く曖昧で、言わない方がいい事も結構ありそう。 一方で面倒になっていろいろLGTMしていると明らかにこれはやりすぎでは無いか、と自分で感じる事もあり、 また、組織やチームによってコードのそうしたクオリティに(良い意味で)意識高いチームとそうでないチームの差は大きいとも自分は感じている。
こちらのケースではやらなさすぎとやりすぎの両方の問題がありうるので、とりあえずもっとやる方に倒しておけば良いという問題では無いと思うけれど、 気にしなさすぎるチームになってしまうのはやはりあまり良くなくて、そうならない為の何かは必要な気もする。
それが押しの強さなのか?というと違うかもしれない。 でも怖くて面倒な人がいる方が規律は保たれがちな気はする。気のせいかもしれないが。
今の時代に必要な事
どちらを見ても、押しの強さとは違う何かが本質的な問題だ、というのは、そうかもしれないな、という気がする。 少なくとも押しの強さが無くても解決出来ているような状態を想像する事は出来る。
一方でその「違う本質的な何か」というのを改善していく為に具体的にどう行動していったらいいのかは良く分からないところ。
今ちょうどスティーブ・ジョブズを読んでいて、 幾つかの実績は本当に彼にしか出来ないなと思われるようなものがあって、 一方でパワハラ以外の何物でも無い、現代なら明らかに許されないような態度が日常的でもある。
そうしたものは多くのスキャンダルや被害者の頑張りで改善してきた結果今のスタンダードがあって、 それは全く被害者側が正しいとも思っている。
自分の押しの強さというのがそういうのと同じとは思っていないにせよ、 時代が穏やかな話し合い側に進んでいるとは認識している。だからこそ押しの強さ以外の何かの重要性はより高まっているようにも思える。
それが何なのかはわからないし、US大手企業があまりうまくやれているようにも見えないのだけれど、 そもそもそういうのは大手が苦手とする所なので、もうちょっと得意な所の人の話を聴くのが良いのかもしれない。